「僕の中では「書かない」という理由が大きいです。やはり書く=作家という印象がありますね。僕は演出家と映像をやっているんですけど、両方とも「ドキュメンタリー」という事に関心があります。それはどうゆう事かというとまず問題は自分より外にあって、その問題に入って行くというスタンスをとっているので、自分で絵を書いたり文章を書いたりという所から作品をスタートさせていません。例えば僕はいろんな出会いであるとか、偶然性という所から作品を拡げて行きます。なので作家=個人からスタートするという印象があるのであまり作家とは名乗らないですね。もちろん人それぞれ作家の捉え方は違うと思いますが。」
―ドキュメンタリーを映像だけではなく、演劇でやる事のこだわりというのはありますか?
「まず演劇にドキュメンタリー性が必要であるとかを第一に考えている訳ではなくて、その作り方しかできないという方が正しいです。でもドキュメンタリーという方法でドキュメンタリー映画を撮るというのはストレートな方法なんですけど、 演劇は繰り返し編集しなければならないので、 演劇とドキュメンタリーってかなり矛盾した事です。だから不可能な領域にドキュメンタリーを持ち込むって言う事は、そこに何か亀裂というか不可能性があって、でも反対に可能性もあるんじゃないかと。だから芝居で言う所の繰り返しとか問題を考えるという事は、つまり演劇について考える事になるので、演劇にドキュメンタリーを持ち込む事によって、逆に演劇の本質が見えてくるのではないかと思っています。」
―そもそも村川さんは映像と演劇、どちらから入ったんですか?
「映像ですね。もう今は無くなったのですが、京都造形芸術大学の舞台映像芸術学科というのがあって、僕が入学した時は2期生でした。 舞台映像芸術学科って映像と舞台が混合しているので 映像専攻で入学した学生が1年生でいきなり日本舞踊やらされるんですよ。それはびっくりしましたね。いきなり着物買ってこいって言われて。逆に俳優とかやりたい人が急にビデオカメラを持たされる。だから舞台と映像が混ざった環境から表現に関する勉強が始まりました。なので僕の中で演劇と映像というのは自然に混ざっているんですよ。」
―その時にいた先生は?
「宮沢章夫さん、松田正隆さん、太田省吾さんがいました。最初に僕が演劇に出会ったのは宮沢章夫さんでした。」
―太田省吾さんの影響はあったのですか?
「授業はちょこちょこ出ていて、作品を見てもらったりはしていましたけど、直接的に仲が良かった訳ではないです。むしろ宮沢さんの方が入りやすかったですね。でも太田さんの影響もあると思います。僕も太田さんの演出論とかからは色々勉強しているので。」
―それは学部1~2年の頃ですね。卒業する時には舞台を?
「 学生時代は映像よりも演劇の方を沢山作っていたんですよ。だけど確か2年生ぐらいの時に京都造形芸術大学で教鞭を取られていた佐藤真さんと出会って、ドキュメンタリー映画は良いなとは思っていました。その様な出会いの中でも演劇の方を多く作っていたというのは、 僕にとってドキュメンタリーというのは他者とか他人という、人間の見方としてのドキュメンタリーていう認識が強いので、その頃から人間を扱う演劇というものと、人間を如何に見るかというドキュメンタリーっていうのが繋がっていたんだと思います。だから演劇を作りながらドキュメンタリー映画の事を考えたり、逆にドキュメンタリー映画を作りながら演劇について考えたりしていました。そこに共通しているのは人間に対する見せ方というか、僕の見方というのが共通していたんじゃないかと思います。」
―村川さんが一番最初に制作した作品は何ですか?
「学生の時に北村想『寿歌』をやったのが最初です。その頃は演劇についてよく分かっていませんでした。とりあえずやれば良いと思って、同級生とやりました。」
―現在はあまり物語性が強い作品は作られていないですよね。そこにたどり着くまでの思想のプロセスというのはどのような変化があったのですか?
「 大学を卒業してから5年間、地点で演出助手をやっていました。そこでは演劇の作り方というか作法を強烈に叩き込まれるような経験でした。地点はまず作法が前提としてあって、それに乗っ取って作品を作らなければならないというか、それこそが面白いんだと思っていたんですよ。実際僕も地点の作品は面白いと思っていましたし、今も思います。それで地点を辞めてからも自分でそのルールに乗っ取って作ってたんですよ。オーソドックスに台本があって、役者がいて、美術があって、音響があって、照明があって、それぞれがそれぞれの作法に乗っ取って、プランを組み立てて作っていました。でもどうもその作り方をしても僕に合わないと感じました。僕はずっと演劇一本でやってきた訳ではなく、映像、ドキュメンタリーもやっていたので。だから自分が演劇を作るにおいて必要なものは何かと考えた時に、色んなものが削られていったんですよ。台本はいらない、俳優じゃなくてもいい、美術も別になくてもいいとか。あと、普通の演劇の作り方をやっても僕より上手い人って沢山いるので。やはり自分の独自の演劇って言うものを探求したかったんですよね。今もその最中です。」
―それでは初期の作品から『ツァイトゲーバー』までの作品の変化についてお聞きしたいのですが、先程お話して頂いた演劇のオーソドックスな作法を崩していく方法と同時に、F/Tシンポジウムで地点の三浦基さんが「法を作って、それを外れたものが良い」というお話をされていたのですが、では村川さんの作品における「法」の部分の変化についてお話し頂けますか?
「先日三浦さんがお話していた法の話は僕にも共通している所で、まず誰とやるのか、それから何人で何処でやるのかみたいなことで自ずとやる事が決まって来るというのは僕も同じです。それで『ツァイトゲーバー』に至る変化というのは「俳優」と「演技」いうことが一番大きかったと思っています。最初は俳優とか演技とは何かということを考え始めていったのですが、どうも台本があって俳優がいて演出家がいて、その演出家の指示の元、その戯曲にアプローチして行く様な俳優の演技の作り方が僕には合わないと思ったんですよ。それで僕にとってどういった人が俳優なのかを探していたんですよ。その時に見つかったのが『ツァイトゲーバー』の方法です。それはたまたま介護だったんですけど、あれを発見した時に凄いと思ったのは、稽古をしなくても話せるし動ける。台本が無いのに喋れる。それは現実にはどこにでもあることなんですが、僕にとっては台本や役を用意しなくても、人間というのはこんなにも動けるし喋れるということが驚きでした。介護する身体がすごい綺麗だなと思ったし。演劇のルールを当てはめなくても、既にそこに演劇的なものがあるし、俳優っていうことがないのに俳優っていうことになっていることが一番の発見で、それが僕がドキュメンタリーを演劇に持ち込むということです。言い換えればそれが演劇にとっても無理がないというか、これを演劇と言っても無理がないというか、演劇に耐えうるドキュメンタリーの持ち込み方というか、それを発見したんだと思います。すごくいい方法を発見したなと思いました。今回の『言葉』もその流れでやっています。」
―『言葉』の方は「旅行者」というものを持ち込んでいますが、戯曲は無く、役者に発言をしてもらってそれを編集していくという手法をとっていたのですよね?
「 はい、でも今回は戯曲もなく俳優も使わないとなると、出る人間が何を抱えているかっていうのが大事になり、そこが難しかったです。『ツァイトゲーバー』に関しては役者が実際にしている仕事なので、あの人の体にしみ込まれています。その意味は大きい。しかし今回はただ旅に行っただけなので、現実として弱いんですよね。例えばこれが被災地に関心のある人間が行けば、おそらく旅がその人にとって強烈な体験になるんですが、あえて僕はある種フラットな二人を選んだので、それが難しかったですね。新しい現実をこっちが捏造するというか。例えば『ツァイトゲーバー』で出演した俳優にマクドナルドで1週間バイトしてもらって、マクドナルドについての演劇を作る様なものです。即席の現実を作って、それをドキュメントするというような、結構無理のある事だったのでそれが難しかったです。今回の『言葉』では『ツァイトゲーバー』に比べるといわゆる演劇的だとよく言われます。凄い作り込まれたフィクションみたいな感じがするし、出ている俳優も俳優に見える、というような事を言われるんです。だからあの二人が現実というものを作るという時に、「旅行者」いうのが現実として弱かったんじゃないかなと思います。」
―今回の作品を作る時に、東北の俳優を使うということは考えなかったのですか?
「 そうですね。先日の三浦さんじゃないですけど、身近にあの二人しかいなかったんですよ。僕は、あの二人は見るものが特殊だなと思っていて、感想の言い方とか見てくるものが面白いと思っていたので、とりあえずはまずあの二人がいるっていうところからしか始まれなかったです。確かに現地の人を読んで来るって言う事は確かに可能性はあるかも知れませんが、それはやっぱり限定してるって事ですね。」
―旅に行かれたのは1週間だとお聞きしましたが、では旅行期間が1週間の場合と、1ヶ月行った時だと、フィクションとリアリティの境目は変わると思いますか?
「 それは変わりますね。」
―ではフィクションとリアリティの間というのは、どのように考えていますか?
「結局演劇は作品になるので、そもそも何を持ち込んでも絶対にフィクションになるという構造があると思います。僕がオーソドックスな作り方が合わないと言っているのは、いきなりフィクションを作る事が僕には合わないという事だと思うんですよ。だから今回に関して言うと、フィクションの方が強くなってしまったので、フィクションとノンフィクションのバランスが少し悪かったと思います。現実とフィクションのバランスの関係で言うと、僕にとっての現実、出演者にとっての現実が重ければ重い程良いのかも知れないですね。」
―僕は『言葉』には作家が3人存在したという感覚を受けたんですよ。それは役者二人と村川さん。つまり体験を共有している人が多ければ多い程、現実になると思っているのですが、村川さんは現実の重みというものをどうお考えですか?
「なるほど、作家が3人いるという感覚は凄くよく分かります。『言葉』というタイトルにしたのもその理由があると思います。『言葉』というタイトルにしてしまうと、もう僕1人の手には負えなくなります。作っていく段階でも言葉を前にすると全員が平等になるということがあります。それで、確かに現実を体験する人数が増えれば増える程それが現実になっていくって言うのはすごく面白くて、僕はそこにお客さんを巻き込みたかったんですよ。だからマイクを客席に向けたりしたんですよね。今回の作品では旅に行った僕たちっていう特殊な体験を持った人達が作ってやっているんですけど、扱っているのが震災なので、この特殊性が…そっか、だから僕はもう一度現実を作ろうとしたのかもしれない。ここっていう。だから、そういった特殊な体験をした作り手たちと、もしかしたら同様の特殊な体験をしているかもしれないお客さん、実際にボランティアに参加した事があったり、行った事もない人も混じっていると思うんですけど、その様な人達を取り囲む、全ての「今」を取り囲むこの「今」の時間を、さらにドキュメントするというか、その様なものを作ろうとしたんですよね。」
―現実を再度作り直すというお話がありましたが、ということはいま僕たちがいるのはフィクションの世界ということですか?実際にいま僕たちがいる世界というのはフィクションであって、現実は作っていこうとしない限りは生まれないということなのか、あるいは、僕たちが今いる現実は現実として常にあるけど、作る事も出来る。もしかすると作るという行為はそもそもフィクション的なものを持っているのでしょうか。
「もちろん、いま僕たちが話している場所は現実だと思います。僕は演劇でこの現実をもう少し透明度を増す様なというか、現実を作り出すということですね。だからこれは確かに現実なんですけど、もう一個上というか濃いというか、改めて現実を見つめ直すという事なのかもしれないし、作り出しているのかもしれないし。新たに現実を作る事が僕にとってのフィクションなのかもしれないですね。けど、普通は違いますよね。まずはフィクションを作るって言いますよね?」
―そうですね。僕は虚構を見せて現実に落とし込むのが演劇だと思っています。
「そうですね、そうだとこれはちょっと違いますよね。もう一回現実を作り直すっていうことですもんね。だから最近僕はなんだかんだで劇場は良いなって思っていて、やっぱり限られたあの場所で、お客さんが集合してしまった環境というのは良いなと思っているんですよ。劇場の問題は色々と語られているとは思うんですけど、新しく現実を作るには向いているなと思っています。だから劇場って言うのにはこだわった方が良いなと思いました。」
―村川さんの言葉を借りて言うなれば、劇場は演劇をする為の更地だと言えるので、新しい現実を作るのであれば、劇場が向いているんだろうなというのはとても共感します。僕が『言葉』を観劇した時、言葉そのものに対して随分研究をされているなという印象を受けました。村川さんにとって言葉というものをどの様に捉えているのですか?
「 映像に似ているのかもしれないです。映像の授業で初期の方で教わる話があって、その内容を結構覚えています。それは例えば1人の人がいて向こうに海があるシーン、男女が立っているシーン、血の付いたナイフ、目のアップ、という4つのシーンがあるとするじゃないですか。これをどうやって組み合わせるかによって、全然違う映画が出来上がるんですよ。だからこれはカットとカットの繋ぎ方によって色んな印象が作れるし、編集の順番によって殆ど映画が決まって来る。僕にとっての言葉はこれに似ているのかもしれないです。と言いますか、特に今回の作品での演劇における言葉に関してですが。例えば「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉があるじゃないですか。これだときっちり意味が分かるというか、いわゆる一般的な文法で書かれていると思うんですけど、これを「野蛮以後アウシュビッツである、書くことは詩を」とすると、また別の意味が出て来ると思うんですよね。今回の作品に関しては、まずその様な面白がり方をしています。一つ一つの言葉の意味の範囲をちょっと拡げるというか。「A」という言葉が持っている意味を、ぐんと拡げたり縮めたりとか。まぁだから言葉の限界みたいなものを感じているんだと思うんですよね。言葉の使い方はもっとあった方が良いと思っています。その事と震災が繋がっていて、まともな文法でしゃべってもこの震災に対する印象というのが語れないというのが繋がっています。」
―ただ発話をするとなるとどうしても声が混ざってくると思うんですよ。 言葉にはも
ちろん意味があって、だけどそこには声というのはまた違う情報、意味を持っていると思うのですが、 村川さんは声というものをどの様に捉えていますか?
「声は、それこそその人自身だと分かることなんじゃないかと思うんですよね。意味内容というよりも声の持っている音的な部分、トーンとか、それを発する時の態度が分かるというか。例えば「言葉の彼方へ」と言った時に、「言葉の彼方へ」っていう意味は変わらないが、声にのせることによって色合いが変わる。それでその変えているのは誰かというと、発話する人なので。」
―声が主体というのは、最初の話に繋がると思います。「人をどう使うか」「人をどう見るか」というところが魅力なんだろうと。言葉じゃないけどくっついて来る声というのが、演劇の面白さと言うか、その場で発話される事の面白さなのかなとこの前の演劇を見ていて思いました。
「 だから何か別のものに憑依する例えば巫女的な声は嫌いですね。」
―宗教は演劇の原初的なものだと思っているのですが、今はそこには乗らないという感じですね。最初の方でもお話して頂いた事ですが、そういったものを捨てると。ではその「捨てる」ということは、普通に戻すということですか?
「 その人に戻す、ということだと思います。僕の中に捨てること自体に価値を持っているとか、現代演劇口語みたいなものが真実だと思っているからそうしている訳ではないです。これは難しくて、今回の『言葉』みたいな作品を上演すると、「あぁ、村川というのは現代口語演劇の中にいる」とか言われるんですが、僕自身、そんなことは全く思っていなくて、ただ「その人に返す」ということだと思うんですよ。その人自身が言っている事が大切で、何も発語の仕方とか、演劇史とかの判断があってやっているわけではないです。」
―それは役を無くすという事ですか?
「 はい。役を無くすといっても、これはフレデリック・ワイズマンというドキュメンタリー映画監督も話している事ですが、結局みんな何かを演じている訳です。舞台上で何の役がなくても、自分という役を演じるし。そこだと思いますね。」
「 強度があるかないかという事だと思うんですよ。パッケージ化出来ているかどうか。様は作品になったっていうってことは、何かしらパッケージされている事だと思っているんですけど、最近は毎回作りながら考えています。『ツァイトゲーバー』は上手くまとまったなという実感はあるんですけど、『言葉』は変にまとめなくて良かったとは思っています。」
―それは作り方が変わったからですか?
「 まぁ、僕にとっては旅って言うものの現実の作り方が弱かったって言う、そこに全部集約する感じがします。」
―何を持って作品が「まとまった」と言えるのでしょうか。
「『ツァイトゲーバー』の作り方だと、 実際に8時間ぐらいの仕事行程があるので殆ど勝手に決まっていくんですよ。だからその時間軸は残しつつ、だけど8時間だと長いんで抜いていく訳です。これとこれは一緒だから良いとか。そうすると僕の目線とか視線とは別に、 自ずとやる内容によってやれる事が勝手に決まってくる事があったんですね。だけど『言葉』は、旅に行った二人が時間が経つにつれて、その内容を忘れていってしまうんですよね。日常にどんどん消されていくというか。だから二人にとって絶対というものを探すのがとにかく大変だったんです。例えばこの話はあの時は強烈に覚えていたけど、帰ってきたら、そうでもないなって事ばかりでした。では何処に重きを置いていけばいいの?というのがあって、だからそれを強引に選んでいく作業というのは、フィクション作っている感覚でした。そこが難しかったです。」
―ただ、そこに可能性を見いだしているんですよね。
「そうですね、台本があって俳優がいたら強いんですよ。俳優は台本を読む人であり、俳優にとっては台本というのが現実になるから。だけど俳優も使わない、台本も使わないとなると、その俳優にとっての強烈な現実を新たに見つけるなり、用意しないといけない。だから出演者にとって強い、台本にとって変わる現実を見つけてこないといけないんです。」
―先日のシンポジウムで畠山さんが「知覚を知覚すると意識になる」と仰っていたと思うんですが、その意識になるという事は言語化可能になるということで、これは台本になりうるのではないかと考えています。今回の作品では、村川さんは俳優と話して俳優に意識化させるという作業はしなかったんですか?
「 少なくとも東北にいたときは全く喋らなかったですね。ただ帰ってきてから覚えている事を話してほしいって言いました。やはりその人にとって覚えている事って正直なんで。それでまずひとつ限定が始まるんですよ。だけど二人全然バラバラで、男の方はある程度早い段階で、言葉が出尽くしてもうこれ以上無いって言う事があったんで、これは一つの限定になる。逆に女の子の方はやたらあるんですよ。もうざーっと大量に書いてくるんですけど、書き過ぎて何が本当かが分からなくなってくる。それぞれの言葉を映像の編集みたいに、この言葉の後にこの言葉を入れるとどの様な余韻が出てくるのか、その余韻が震災の余韻と呼応するんじゃないかということを考えていました。」
―なるほど。今日はありがとうございました。
インタビュアー:宮崎敦史さん
※ 初出 Blog Cam in F/T(http://blogcamp-festivaltokyo.com/『言葉』の彼方へ:村川拓也インタビュー/)
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